感動ポルノは善悪の問題ではなく、将来のデフレ化の懸念がある!

SOGI(性的指向・性自認)

セクシュアリティというのは、

人それぞれの多種多様さがあり、

統計上で多い方か少ない方に分かれる

ことで、

全体からすればマイノリティに該当する

ことはあっても、

それ自体が絶対的な不幸というものでは

ありません。

 

 

捉え方・経験も違いがあり、

苦悩がセクシュアリティと関係ある場合も

あれば、

無関係の場合もあり、

その点も人それぞれです。

 

 

ただ、「不便」と「不幸」の概念が

混同された風潮や、

「とりあえず壮絶な経験をされた方は、

優秀・偉大なる者」といわんばかりの

風潮がまかり通っていることがあります。

 

 

私は、個人的にそのような風潮の蔓延を

エピソード依存症と呼んでいます。

 

たしかに、人が誰かに引きつけられるプロセスの中

には、成功ストーリーが含まれることがあります。

 

人が感化される時は、単にうまくいった時の話では

なく、途中まで順調に来ていたものの、

ある時点で一旦沈んだ過去に感化され、

まわりの支えもあってうまくいくことができた、

といったV字逆転劇に人が感化され魅了される特徴

があります。

 

 

 

 

 

 

 

そして、興味付けのための手法が本質的に

組み込まれている例として挙げられるもの

には、感動ポルノがあります。

 

 

感度ポルノという言葉は、NHKの

『バリバラ~障害者情報バラエティ~』

内で取り上げられて注目されるように

なりました。

 

感動ポルノとは、あるものを対象に、

故意に「感動する」という感情を煽るため

に利用するもので、

対象物は障がい者のエピソードと

なります。

 

 

バリバラで感動ポルノが取り上げられて

いた当時、その裏番組が

『24時間テレビ 愛は地球を救う』で、

バリバラが24時間テレビについて、

障がい者を感動の道具にしているとの批判

をしているとのざわつきがありました。

 

一応NHK側は、「他局の放送とは関係ない」との

コメントでした。

 

まぁ「愛は地球を救う」をもじった

「笑いは地球を救う」のロゴの入ったTシャツを

出演者が着ていることから、

「24時間テレビに物申す」感は満載でしたねぇ。

 

 

実は、感動ポルノはバリバラの

オリジナル造語ではなく、

ステラ・ヤングさんが唱えたものです。

 

 

 

 

 

彼女は、先天性の骨形成不全症の障害を

持ちながら、

コメディアン兼ジャーナリストとして

活躍されたオーストラリア人で、

32歳で亡くなられました。

 

彼女の講演の中では、障がい者が困難なことに挑戦

する光景を感動ポルノと表現され、

ポルノという言葉を使ったのは、

障がい者が感動の材料として健常者に消費される

ような意味合いで語られました。

 

 

では、感動ポルノやエピソード依存症など

について、

私なりに普段はあえて言わないことも

洗いざらいぶっちゃけていきます。

 

 

 

 

 

1.表現は自由。だけど強要はもはや犯罪レベル!

ステラ・ヤングさんの見解からすれば、

24時間テレビのように、

健常者の感動を呼び起こすために障がい者

を取り上げる風潮に対して批判的な立場

だとうかがえるような様子はありますが、

そもそも感動の材料に選ぶこと自体が

それなりに問題なのです。

 

 

というのも、

本来人間は障害の有無に関係なく、

「得意・不得意」、

「できる・できない」、

「適正・不適正」があるのに、

何かしらの苦手なものを何とかして

乗り越えてできた時を感動の場面と

想定してシナリオを作る傾向が発信する側

にあり、

その感動は障がい者の場合の方が

より大きな感動があると計算しているの

って、

障がい者を不幸や可哀想の前提条件のもと

に話を進めているような感じが否めない

からです。

 

 

たしかに無関心よりは、ちゃんと注目して

見てもらえることは重要です。

 

ただ、感動物語に沿うかどうかの判断基準

が、別の障害を引き起こしているのも事実

です。

 

 

過去に24時間テレビの企画には、

転落事故で下半身不随になった12歳の

少年が家族と富士登山に挑む内容があり、

シナリオとしては、

少年がリハビリによって杖を使って歩く

ことができ、

父・母・弟・出演者の浜口京子さんの

支えによって、

富士山の登頂を目指していくものでした。

 

登山を終えてへたり込んでいる少年の映像

には、

男性が少年の頭を叩き、帽子が飛んでいく

様子があったのです。

 

 

 

 

 

 

その男性が少年の父なのか番組スタッフ

なのかは、

顔が見えないので明らかではないのです

が、

仮に激励のつもりだったとしても

すごく荒々しい触れ方に見える映像から、

虐待といわんばかりの様子でした。

 

そのようなつもりがなかったとしても、

感動物語の完成度に走りすぎで、

本質が何たるかの見失い、

人権意識より「最大多数の最大幸福」重視

といった感じで、

いかがなものかとは思います。

 

いくらテレビだとしても、

いくら表現の自由だと考慮してもです。

 

おそらくテレビ制作側が予定している

感動物語に沿わない部分は編集でカット

されていき、最終的に、

いわゆる感動ポルノに到達していく

のでしょう。

 

 

上記の24時間テレビの企画は

あくまで一例に過ぎないのですが、

そもそも一歩間違えたら虐待レベル

(実際は虐待だと思うのですが…)になる

ことまでして演出に走らないと、

まるでストーリーとして成り立たないと

いうような固定観念に問題が

ありそうです。

 

ではなぜそのような固定観念の蔓延が

起こっているのでしょうか。

 

 

2.今を見るのか、過程にこだわるのか

元々「障害」というジャンルだけでは

なく、世の中の一般的な考えとして、

「苦労を乗り越えた者ほどエネルギー値が

高い」といわんばかりの、

苦労主義的社会のような風潮はあります。

 

 

ましてや、人それぞれ悩み・問題の捉え方

は違うのに、

当事者間で苦労マウントや

それに序列意識のようなものに駆られる

事実さえあるくらいです。

 

 

 

 

 

もちろん、重大な問題を抱えながらでも

腐らずに頑張ってきたことは純粋に尊敬に

値するものですが、

個人の特別なバックグラウンドを優先的に

偏って評価すべきといわんばかりの風潮も

いかがなものかとは思います。

 

 

例えば、就活において、

壮絶な経験をしてきた人とそうでない人が

いれば前者を評価するのは、

ストレス耐性が高いと判断し、

その評価ポイントの根本的な理由は、

社会が一般的に苦労を強いられる仕組み

だからです。

 

 

何かしらのブレイクスルー経験は、

ある意味資格のようなもので、

実際、その人を客観的に評価するための

ものさしの役割にもなりますし、

苦労や壮絶な経験という資格至上主義的な

社会では、そこに正しさのような風潮が

あります。

 

苦労という既成事実さえあったり、

作ったりで、割と社会で立ち回れることも

結構あります。

 

なので、

「若い時の苦労は買ってでもしろ」という

言葉もあるのでしょうねぇ。

 

 

とはいえ、この風潮の良し悪し以前に、

「やりたくないことでも、やらなければ

ならず、そこに人生の意義がある」という

ような前提の方が問題です。

 

 

様々な価値観、多様性が重んじられる

ようになった令和では、

自分らしく生きる」、

やりたいからやる」、

という視点をもっと持っていいのではと

個人的には思います。

 

 

ここまでの話では、

苦労主義的社会の風潮が悪のように

聞こえそうですが、

決してそうではなく、

社会にどこかに潜んでいる悲痛な声なき声

に少しでも広く届き、

その人たちが自己否定や深い孤独に

陥らないようにするのは重要なので、

何かしらのエピソードは力強いものです。

 

とはいえ、エピソードの重みは

必ずしも壮絶さがものをいうわけでは

ありません。

 

では、どういったものでしょうか。

 

 

3.話の重みは壮絶さではなく、人それぞれの身の丈の方が大事!

エピソード・ストーリー性って、

内容のスケールが大きければ素晴らしい

というわけではありません。

 

 

例えば、youtuber講演家の鴨頭さんが

「いい話しようとするの禁止!」と

言われるくらい、

表現力(デリバリー)より心の矢印の方が

大事で、

考え方(マインド)を言葉(コンテンツ)

にでき、それらがつながっていれば十分

だということです。

 

 

 

 

 

 

むしろ、表現力やその技術に走りすぎる

ことが、かえって逆効果になることさえ

あるようです。

 

まぁ鴨頭さんのような講演産業の人は、

所詮ただの演者・芸に過ぎないという意見

もあるようですが、

本当に悩んでいる人に刺さるものに

ついては分かる気がします。

 

薄っぺらい言葉をテンションで埋めているもの

よりも、

本当に自分のことを想ってくれている言葉の方が

たとえ棒読みでも響くものです。

 

 

なので、感動ポルノというのは、

デリバリーに走りすぎで、根底にある

考え方とそれに通じる言葉が揃っていれば

何も壮絶さで見せなくても、

刺さるものは十分にあるはずなんです

よねぇ。

 

 

表現で大事なことは、

自分の身の丈にあった表現で、

自分なりの気づきを誰かに伝えるという

意外にシンプルなもので、

それに必要以上に味付けをしない方が

伝わる気がします。

 

 

4.まとめ

いかがだったでしょうか。

 

感動ポルノという言葉を提唱した

ステラさんの表現にもあったように、

「自分たちの病気や身体の障害より

社会が障がい者を特別視する障害の方が

もっとひどい。」というのは、

大多数側でない人を一括りにして

何かしらのレッテルを貼ってしまうこと

でその当事者たちが苦しむ構図は、

障がい者のケース以外にも、

LGBTSOGIに関しても通ずるものが

あります。

 

 

所詮テレビなどのメディアが一方的に

作り上げてきたイメージや、

ノイジーマイノリティがまるで当事者の

総意かのように見せる像など、

偏った演出は様々にあります。

 

 

ただ、感動ポルノはそれ自体が

悪いのではなく、

一方的な価値観の押付けになるような

ことになったり、

壮絶な経験をしてきた人ほど上位

みたいなエピソードの序列の風潮が

できてしまうのが問題だと思います。

 

 

私は個人的に、

感動ポルノへの依存度と

本当の多様性の普及は、

反比例の関係だと思うので、

真に多様性が認められる頃には

感動ポルノはなくなっているのだろうと

感じます。

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